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邦人女性が暴行被害=インド [旅]

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2015020900697

 海外では甘い言葉に騙されないこと。「甘い言葉」が判断できなければ仕方ないが。命があっただけ良かった。


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内定後のその後 [旅]

「内定後のこと」(本稿2012-06-11)では、沖縄へ渡ったところまで述べた。渡航後の詳細は別ブログで書く予定。ここでは、当時(1966年)のことを一部であるが記したい。
 沖縄は、古琉球期、三山時代(北山、中山、南山)、琉球国(琉球王国)、琉球藩、鹿児島県編入を経て沖縄県設置(1879年=明治12年)。

敗戦後、琉球列島米国民政府が沖縄全島(暫くは奄美群島も)を支配(施政権)、日本国に意思決定権はなかった。朝鮮戦争、ベトナム戦争勃発で軍事基地化へ、その後も冷戦のなかソヴィエト連邦や中国など共産圏に対する防共軍事拠点の一つになった。米軍人による暴行、殺人あり、私が実習した沖縄本島北部のパイン缶詰工場前のサトウキビ畑では、数日前に沖縄女性が米軍人に殺されたと知らされた。

島の産業はサトウキビなどの農業、製糖、輸出用パイン缶詰製造、基地関連の土木建築・飲食業など。パイン缶詰製造では、台湾からの女工さんが南の先島にある工場から北上しながら工場を転々と移動する。貿易は本土からの移入超。1$=360円(固定制)の時代。砲弾で焼け落ちた首里城は、再建された守礼之門が凛として建っていた。今は公園になっている南部戦跡は荒れたそのままの状態。

内地も同様であったが、当地も稼ぐに忙しかった。女性は働き者であった。今のお化粧した色白の女性を見るにつけ、また、沖縄出身の歌手などの活躍を見ると実(まこと)に隔世の感あり。
 食事は、豚肉、ポーク缶を使った料理多し。家庭で朝から油炒め物には驚いた(裕福なお家だったのかな)。実習した缶詰工場では歓迎の意味を込めてヤギの丸焼き2頭を出してくれた。刺身のほか、ぶつ切りを入れた汁は初め匂い強いが慣れると美味くお代わりするほど。広い食堂で女工さんたちも一緒に食べた。
 酒は泡盛。畑に囲まれた工場での仕事が終わると、工員さんから声がかかりお宅へお邪魔してご馳走になった。泡盛を飲んで縁側でごろ寝、朝、目が覚めてまた30分ほど歩いて工場へ戻り働いた。

同じ年頃の若者に親切にしてもらった。那覇市国際大通りの裏にある銭湯で一緒になった人たちは私をオートバイに乗せてコザ市まで案内してくれ、石垣へ行く船で一緒になった琉大の学生は西表島でテントに泊めてくれ、また、石垣島で炎天下を歩いているとジープに乗った若者が島を一周して案内してくれた。
  帰りの土産は泡盛で1升瓶2本と壺に入ったもの1つ。
当時、観光バスのガイドさんに教わった歌の一つ「てぃんさぐの歌」(from you-tube)
http://www.youtube.com/watch?v=0Qwqzj5C_cE

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